高橋憲一の旅ブログ

旅の記憶

対馬① 始めて一海(いっかい)を度(わた)る

始めて一海(いっかい)を度(わた)る 千餘(よ)里 對馬國(つしまのくに)に至る 其(その)大官は卑狗(ひこ)と曰(い)い 副は卑奴母離(ひなもり)と曰う 居(きょ)する所は絶㠀 方四百餘(よ)里可(ばか)り 土地は山險しく 深林多し 道路は禽鹿(きんろく)の徑(こみち)の如し 千餘戸有り 良田無く 海物を食し 自活す 船に乗り 南北に市糴(してき)す 【始めて一海を渡る。千余里で対馬国に至る。その大官はヒコといい、副官はヒナモリという。住んでいる所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は山が険しく、深い林が多い。道路は鹿などの獣が通る道のようで、千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州北部や韓国)へ行き、商いをして米を得ている。】

  • 山險しく深林多き対馬
    [山險しく深林多き対馬]

3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」による対馬の描写です。プロペラ機Q400は、まるでそそり立つ断崖に向かって突っ込んで行くように着陸していきます。福岡からは僅か20分くらい。飛行機の窓から見た初めての対馬は、まさに「山險しく深林多」き地でした。
対馬は、南北82Km、東西18Km、総面積708㎢という日本でも3番目に大きな島ですが、その90%は山林。6町125の集落はその僅かばかりの平地に集約されています。そうした対馬を取り巻く自然環境が、「良田無く…船に乗り南北に市糴す」という生活状況を生み出したことは容易に想像できます。加えてここは、韓国釜山まで僅か49.5Kmという国境の島。古代から日本の歴史を最前線でつくってきました。

8世紀初頭に編まれた古事記では、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州を合わせて大八島国と呼んでいます。当時捉えられていた日本列島の姿ですが、対馬が既に、壱岐と共に大陸航路の要衝であったことをうかがわせます。
古事記に収められている海幸山幸の神話も、対馬に由来があります。美しい浅茅湾(あそうわん)の入江にたたずむ和多都美(わたづみ)神社です。明治5年までは「渡海宮「(わたつみのみや)」と呼ばれていました。
釣り針をなくしたことを海幸彦に責められ、山幸彦が途方にくれていたときのこと。潮をつかさどる神が現れ、竹で編んだ小舟に乗って「綿津見神(わたつみのかみ)の宮殿」に行けば、その海の神の娘が相談に乗ってくれると伝えます。その小舟に乗って潮に流され、たどり着いた宮殿が現在の「和多津美神社」です。竜宮の入口であることを示すように、鳥居が海の中から立っています。山幸彦=彦火火出尊(ひひほほでみのみこと)と、海神の娘豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神が祀られています。町の名前「豊玉町」もここに由来しているのでしょう。

古事記の中の「海神宮(わたづみのみや)」は日向国とされていますが、対馬史を研究されてきた永富久恵氏の著書によると、日向には延喜神名帳(10世紀初頭に編まれた全国の神社の一覧)に載る海神宮はなく、対馬には他にも海神 (わたづみ)神社など四社があり、それぞれに山幸彦と、豊玉姫を祀っています。また和多津美神社には、本殿裏手に豊玉姫の墳墓とも言われる古代祭祀の跡もあり、幽玄な趣をたたえています。

  • 和多津美神社の鳥居
    [和多津美神社の鳥居]
  • 和多津美神社
    [和多津美神社]

和多津美神社を訪ねたときはあいにくの干潮でしたが、干潮の時にしか見られないものもありました。海の中に立つ三本足鳥居です。説明がなければ見落としそうになるのですが、柱の中心には、ご神体と言われるうろこ状の岩があり、古事記の中に書かれている「魚鱗(いろこ)の宮」を彷彿とさせます。山幸彦と豊玉姫の間に生まれた阿曇磯良(あずみのいそら)の墓だとも言われ、いわゆる海人族の有力豪族安曇氏の始祖となる人ですが、この人の妻になるのが、母豊玉姫の妹玉依姫で…えーっ、自分の叔母さんじゃないか! そのままわき道にそれ続けるとその二人の子供が初代天皇「神武天皇」ということになります…。頭がいささかクラクラしてきました。

  • 磯良恵比寿の三本足鳥居
    [磯良恵比寿の三本足鳥居]
  • 魚鱗の宮を彷彿とさせる鳥居の台座(阿曇磯良の墓)
    [魚鱗の宮を彷彿とさせる鳥居の台座(阿曇磯良の墓)]
  • 豊玉姫の墳墓
    [豊玉姫の墳墓]

対馬南北を分かつ浅茅湾(あそうわん)は入り組んだ入江が美しい日本有数のリアス式海岸です。万関橋が島の南北(以前は上県郡、下県郡と呼んでいました)を結んでいます…というのも実は正しい表現ではなくて…今は確かにそうなのですが…ここは元々つながっていた所で、対馬を南北に分かつこの瀬戸は、明治34年に旧日本軍が人工的に掘った瀬戸なのです。目的は対馬を東西に横断するショートカット。日露戦争が予想されるに至った頃、日本海軍は水雷艇を対馬西部の浅茅湾から直接対馬海峡東水道に向かわせるために、この久須保水道(万関瀬戸)を開削したのでした。
対馬は、古くは元寇によって甚大な被害を受け、幕末にはロシアが一時浅茅湾を占拠しました。そのときはイギリスの介入によって事なきを得るのですが、国境の島は、近世になってからも、やはり国防の最前線にあるのでした。

  • 浅茅湾の入江
    [浅茅湾の入江]
  • 明治35年に築かれた上見坂(かみさか)堡塁跡
    [明治35年に築かれた上見坂(かみさか)堡塁跡]
  • バルチック艦隊を迎え撃つために掘削された久須保水道
    [バルチック艦隊を迎え撃つために掘削された久須保水道]
  • 対馬北端鰐浦の韓国展望所から見える海栗島は島全体が航空自衛隊の基地
    [対馬北端鰐浦の韓国展望所から見える海栗島は島全体が航空自衛隊の基地]

 

 

次回は2020年9月23日(水)掲載予定です。

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