高橋憲一の旅ブログ

旅の記憶

天正遣欧少年使節⑥ 千々石ミゲル(前)

千々石ミゲル像①(雲仙市千々石総合支所)
[千々石ミゲル像①(雲仙市千々石総合支所)]
千々石ミゲル像②(雲仙市千々石総合支所)
[千々石ミゲル像②(雲仙市千々石総合支所)]
碑文①(千々石総合支所)
[碑文①(千々石総合支所)]
釜蓋城遠景(雲仙市千々石町)
[釜蓋城遠景(雲仙市千々石町)]
釜蓋城(雲仙市千々石町)
[釜蓋城(雲仙市千々石町)]
千々石清左衛門之碑①(千々石町釜蓋城)
[千々石清左衛門之碑①(千々石町釜蓋城)]
千々石清左衛門之碑②(千々石町釜蓋城)
[千々石清左衛門之碑②(千々石町釜蓋城)]
碑文②(釜蓋城)
[碑文②(釜蓋城)]

ローマを見た四人の少年の中で、中浦ジュリアンとおよそ対極的な後半生を送ったのが千々石ミゲルでした。

ミゲルは千々石の釜蓋城(かまぶたじょう)で、城主千々石直員(のうかず)の子として生まれました。父直員は有馬晴純の子で、大村純忠の弟にあたります。恵まれた家系に生まれたミゲルでしたが、生まれた翌年、父は佐賀・龍造寺氏の攻撃を受けて自刃、他の兄弟も戦死し、母ひとり子ひとりの生活を余儀なくされていました。

その母の反対を押し切って遣欧使節に加わったミゲルでしたが、生来細やかな気質を持っていたようで、トレドでミゲルが天然痘にかかったとき、使節の他のメンバーもミゲルと一緒に長く留まった理由を、「ミゲルが数日でもひとり後に残されたら、精神的障害を受けただろう」と、彼らを世話したイエズス会修道士が記録しています。

ヨーロッパから戻り、天草のコレジヨで学んでいたミゲルは、身体が弱かったことも関係してか、勉強に遅れが出はじめます。そして1601年、マカオ留学の選に洩れたことを契機にイエズス会を脱退、名前も千々石清左衛門と改め、従兄弟である大村喜前(よしあき)に仕えるのです。そしてさらにその5年後、喜前が日蓮宗に転向すると、ミゲルもまたそれに従って棄教したのでした。

イエズス会脱会の経緯と、その後のミゲルについては、証言によっても異なります。コレジオでミゲルの教師だったモレホン神父は好意的で、「病気で手足がほとんど麻痺していたので、イエズス会を脱退して結婚し、従兄弟の大村喜前に仕えた」と語り、その後のミゲルについて「異教にも戻らず、キリスト教を迫害もせず、かえって自分のキリスト教またはヨーロッパ体験を好意をもって語っている」と書き残しています。

一方で、同じくミゲルの教師だったルセナ神父は、ミゲルを厳しく批判し「彼は脱退を求め、またそれにふさわしいので除名されたが、大村喜前とその家臣が棄教したとき彼もまた信仰を捨て、異教徒、否はなはだしい異端者か無神論者になった」と書いています。

喜前に仕え、伊木力に600石の所領を与えられたミゲルでしたが、やがて喜前との間に亀裂を生じ始め、喜前に命を狙われるまでになります。ミゲルは従兄弟である晴信を頼って有馬に逃れますが、今度は晴信の家来に切り付けられ、有馬にも住めなくなってしまいます。有馬はその時代にあってもなおキリシタンの里でした。棄教者であり「キリシタン迫害の側に回った」ミゲルの住める所ではなかったのです。

ミゲルは、巷間伝えられているように、本当にキリシタンを迫害する側に立っていたのでしょうか。それならなぜ、喜前に命を狙われることになったのでしょうか。その間、ミゲルに一体何が起こったのでしょうか。

おそらくそのすべては、大村藩の政治的な思惑によるものでした。大村藩による伴天連追放は、長崎の替地問題(幕府と大村藩の交渉の間に伴天連が入って、幕府に有利なように導いた)に端を発したものでしたが、藩の公式記録には「ミゲルが喜前に、キリシタンは邪法であり、表面はいいことを言っても実は国を奪うための策略であると進言した」ことが理由であると記されています。替地問題を伴天連追放の理由にすると、それはとりもなおさず幕府への反抗を意味していました。すべての責任が「棄教者」であるミゲルに押し付けられたのです。

そうであれば、ミゲルは喜前に裏切られたことになりますし、二人の間に亀裂が生じたのも頷けます。ミゲルがキリシタンの里である有馬に逃れた理由も、またそこで大村藩が流した「迫害者ミゲル」を信じる晴信の家来によって、ミゲルが切りつけられた理由も、すべてに納得がいきます。

「結局、彼の従兄弟にも追放され、噂によると前と同じく異教徒あるいは異端者として長崎に住んでいる」。ルセナ神父が書き残した1622-23年の手紙を最後に、ミゲルの消息は、歴史から消え去りました。

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