高橋憲一の旅ブログ

旅の記憶

天正遣欧少年使節②~少年たちの旅~ポルトガル・スペイン

少年たちを乗せた船がヴァリニャーノと共に長崎港を出航したのは、1582年(天正10年)2月20日のことでした。時の権力者は織田信長。信長は教会に対し、絶大な保護を与えていました。安土城のふもとには城に次ぐ立派な教会が建てられ、狩野永徳は、信長に命じられて「安土城下町屏風」を描きます。朝廷も欲しがったというこの屏風を、信長はイタリアに帰国するヴァリニャーノに与えます。ヴァリニャーノは、「この屏風をインド、リスボンを経てローマに持ち帰り、必ずやローマ教皇に献上する」と答えます。それは信長の期待に叶うものでした。信長の視線は、朝廷=国内ではなく、ローマ教皇=世界に向けられていたからです。その4ヵ月後、信長の命が奪われることになるなど、このとき誰も知りません。信長も、教会も、絶頂の真っただ中にありました。

一方、少年たちをヨーロッパに派遣する戦国大名の狙いは、宣教師と結ぶことによって得られる「交易による利益」と、宣教師の背後にある軍事支援を期待する「外交政策」でした。交易による利益も、戦国の時代にあってみれば武器の購入など、戦いに備えることだったでしょうから、良港をもつ領主がまずキリシタン大名になったのは、自国を守る方便だったと言っても過言ではありません。大村純忠が1562年に横瀬浦の港とその周囲の土地を無償で提供し、教会建設まで請け負ったのも、そうした背景からでした。しかし、やがて忠純はザビエルと共に日本に来たトーレスをはじめ、アルメイダ、ルセナ、フロイスなど、当世一流の宣教師との交流によって信仰を深め、ついに1563年トーレスによって洗礼を受け、初のキリシタン大名となります。

  • 横瀬浦港■平戸に代えてポルトガル船はここを拠点とした
    [横瀬浦港■平戸に代えてポルトガル船はここを拠点とした]
  • 天主堂跡(横瀬浦)■1563年、大村純忠は家臣たちと共にここで洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となった
    [天主堂跡(横瀬浦)■1563年、大村純忠は家臣たちと共にここで洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となった]
  • ルイス・フロイス像(横瀬浦)■1563年横瀬浦で日本の第一歩を踏み出す。日本史を著したイエズス会宣教師
    [ルイス・フロイス像(横瀬浦)■1563年横瀬浦で日本の第一歩を踏み出す。日本史を著したイエズス会宣教師]
  • 大村館跡(横瀬浦)■大村純忠が横瀬浦開港後に建設した居館。純忠は龍造寺隆信の圧迫を受け、宣教師の背後にある軍事力を必要としていた
    [大村館跡(横瀬浦)■大村純忠が横瀬浦開港後に建設した居館。純忠は龍造寺隆信の圧迫を受け、宣教師の背後にある軍事力を必要としていた]

四人の少年は、周囲の様々な思惑を背負って東シナ海を南下していきました。嵐を乗り越えて3月やっとマカオに到着したのも束の間、今度は風待ちでその年は暮れまで出航することができません。しかしその間も、少年たちは語学や音楽を学び、美しいマカオの大聖堂を見て、学びの日々を過ごします。それはヴァリニャーノの少年たちに対する教育方針でもありました。

マカオを出航してからも進路を誤認したり、暗礁に乗り上げそうになったり、ついには海賊に襲われる、といった災難に遭遇しながら、1583年11月、やっとインドのゴアに到着します。しかしそこで一行を待っていたのは、ヴァリニャーノとの別れでした。ローマからの知らせでヴァリニャーノがインドの管区長に任命され、インドを離れられなくなってしまったからです。動揺する少年たちにヴァリニャーノは「会のパードレはみな誰でも同じ愛、同じ精神で接するのだから、私でなければならないということはないのだ」と諭します。これまで少年たちの面倒を見てきたメスキータ神父にすべてが託されました。

リスボン■ベレンの塔 テージョ川を往きかう船を監視し、河口を守る要塞。その美しい姿はテージョ川の貴婦人と呼ばれた
[リスボン■ベレンの塔 テージョ川を往きかう船を監視し、河口を守る要塞。その美しい姿はテージョ川の貴婦人と呼ばれた]

インドのコチンで信長から受け取った屏風を収める立派な箱をしつらえ、インド洋を南下。1584年5月アフリカ大陸南端の喜望峰を回って、同年の8月11日、やっと最終寄港地であるポルトガルのリスボンに上陸します。途中でミゲルは熱病に罹りますし、それは文字通り命をかけた2年に及ぶ長い航海でした。リスボンのテージョ河口を守るベレンの塔は、夢の世界への入口のように、少年たちの目には映ります。

この時のポルトガルは、スペインのフェリペ二世による同君連合の時代。少年たちは、行く先々で歓迎され「貴公子」としてもてなされます。

リスボンからシントラ宮殿に遊び、その後スペインに。トレドではミゲルが天然痘に罹り、他の少年たちもトレドに留まるというアクシデントに見舞われますが、10月20日にはマドリッドに入り、11月14日ついにフェリペ二世との謁見を果たします。

  • リスボン■ジェロニモス修道院(サンタ・マリア教会)
    [リスボン■ジェロニモス修道院(サンタ・マリア教会)]
  • シントラ■王宮から見るシントラの町 少年使節の縁により大村市の姉妹都市となっている
    [シントラ■王宮から見るシントラの町 少年使節の縁により大村市の姉妹都市となっている]
  • トレド■大聖堂・獅子の門
    [トレド■大聖堂・獅子の門]
  • トレド■大聖堂・聖体顕示台 大航海時代の富で得た総重量200Kgに及ぶ金・銀・宝石で細工されている
    [トレド■大聖堂・聖体顕示台 大航海時代の富で得た総重量200Kgに及ぶ金・銀・宝石で細工されている]
フェリペ二世■カトリックによる国家統合を理想に掲げる熱心なカトリック教徒だった
[フェリペ二世■カトリックによる国家統合を理想に掲げる熱心なカトリック教徒だった]

少年たちは日本から持ってきた花鳥模様の着物と袴をつけ、足袋に草履ばきといういでたちでフェリペ2世の前に跪きます。そして主席使節である伊東マンショが彼の地の習慣に従い、その手に接吻しようとしたとき、国王はそれを拒んでマンショを抱擁します。それは異例のことでした。この「事件」は瞬く間にヨーロッパ中に広まります。それもそのはず、その三日前に開かれた皇太子に対する宣誓式に出席するため、ヨーロッパ各国の大公使がマドリッドに集まっていたからです(少年たちも国王の計らいで最上の席を与えられ列席していました) 。

スペイン各地で大歓迎を受けながら、ついに1985年3月1日、少年たちはイタリアに上陸します。ローマ教皇との謁見まであと21日。

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