日田往還⑤~石坂石畳道
日田往還①~④は、日田から石櫃までの、別名朝倉街道を歩いた記録でした。今回ご紹介するのは、日田から中津へ向かう、いわゆる中津街道の中で、ハイライトと言われている石坂石畳道です。これは市ノ瀬から伏木峠の間の急坂に敷かれている石畳の道で、全部で16箇所の曲折をつけながら、高低差およそ300m、1260mの距離を上って行きます。
これまで、古い石畳道をいくつも歩いてきましたが、この石坂石畳道は距離も長く、ほぼ完全な形で残されていて、その美しさは他に類を見ないと言っても過言ではありません。
道幅は必ずしも一定していないのですが、説明板によると「約2.2mの道幅のうち、中央部にはやや硬い切石を敷き、その両端には山の自然石を敷く」とあります。中央を歩くのは牛や馬。それで中央は表面を平らに揃え、石と石をすき間なく敷き詰めて牛馬の歩行を助けています。
端を歩くのは人で、自然石の凹凸が、足の裏にそのまま馴染むという仕掛けのようです。勾配にも工夫が凝らされていて、勾配が一定角度を超えると、馬や牛が歩きやすいよう、二、三歩進んでは一段上るという具合に、ゆるい段差がつけられています。
この石坂を作ったのは、隈町の掛屋、京屋作兵衛(山田常良)です。掛屋については日田往還②でもご紹介しましたが、金融を生業とする御用商人です。江戸時代の日田には掛屋七軒衆とか七軒士と呼ばれる豪商がいて、周辺の藩に高利で貸出し、大きな利得を上げていましたが、これらの人々は橋や道路といった公共事業にも私財を投じていました。常良も例外ではなく、この道をすべて私財を投じて作ったのです。
この市ノ瀬から伏木峠に向かう急坂は、日田から中津へ通じる主要道路で、塩や魚の輸送に欠かせない道でしたが、岩や石の露出した難路でもありました。嘉永3(1850)年、常良は周防(山口県)の石工に築道を行わせます。道路完成の翌年、石坂改修の由来を漢文で記した「石坂修治碑」が建ちました。碑文を書いたのは広瀬淡窓です。書かれている内容を知りたいと、現代文に直したものを探したのですが、ついに見つけることができませんでした。石坂石畳道は、現在国道によって、二つに分断されていますが、この石坂修治碑は分断された道のすぐ上に残されています。
常良は、安政6年(1859)の正月、62歳でこの世を去りました。
車でこの石坂石畳道を訪ねようとすると、実はちょっと難儀します。国道に「石坂石畳道」という大きな標識はあるのですが、どこで曲がればよいのか何度行ってもわかりません。グーグルマップで「石坂石畳道」を目的地に定めても良いのですが、細い路地に入り込むことと、先客がいると駐車スペースが十分ではありません。確実なのは、伏木公園を目的地に定めていくことで、駐車スペースもたっぷりありますから安心できると思います。ただこのルートも、駐車場から石畳道に入るまで、民家の軒先を通らなければならなかったり、イノシシ除けの柵を通り抜けなければならなかったりで、ちょっとわかりづらいという欠点があります。付近の人に訊ねると丁寧に教えてくれますし、足を運ぶ価値があることは請け合いです。伏木峠から石畳道の入口まで下って、もう一度登るということになりますが、およそ1時間半のタイムスリップを楽しむことができます。
さきほど、この石畳道は国道で二つに分断されたと書きましたが、国道より上は杉林、国道より下は竹林と、石畳道を挟む景観が変わります。曲折箇所に番号を付けた道標は、近くの三和小学校6年生が平成23年に立てたものです。
僕が行った日はおりしも結婚記念日。往復誰に会うこともなく、二人で石畳のババジジロードを歩くことができました。
次回は2023年4月19日(水)掲載予定です。